つぼみのもっと知りたい!災害看護

「災害看護」って聞いたことはあるし、授業でも習うけど
実際どんな活動をしていて、どんな情報があるのだろう?

そんな災害看護について医教マスコットの『つぼみ』が徹底調査します!

毎年のように起こっている災害や大規模事故の現場でも
たくさんの看護師さんが活躍しています。
みなさんもつぼみと一緒に災害看護について知識や情報を学んで
いざというときに活かせたらいいですね★

前回、災害看護についていろいろお勉強したけれど、実際に現場で活動された方のお話も聞いてみたいなぁ……

ということで、今回は7年前の2011年3月11日に発生した東日本大震災で、災害看護師として現地に派遣され看護活動をおこなってきた方にインタビューをしてきました。


四十竹美千代(あいたけみちよ)さん
赤十字の看護学校卒業後、臨床現場で勤務。
現在は大学の看護学部で教員として看護学生の育成に携わっている。

2011年3月11日に発生した東日本大震災発生から約1か月半後、災害看護師として女川町へ……

―――――(つぼみ)まず、実際に災害看護師として活動された場所と期間を教えてください。

(四十竹さん)女川です。松島と石巻の間あたりですね。被災がかなりひどかった地域です。そこに、原発をもっていない中部地区の大学、岐阜と富山の大学、ふたつ協働で診療所を設けました。交互に1週間交代で派遣されていました
( 出典: https://mapfan.com/map?c=38.424209801484835,141.49759004343173,12&s=std,pc,ja

―――――(つぼみ)じゃあ1週間終えたら入れ替わりで次のチームが行く、ということですか?

(四十竹さん)いえ、二日間ほどは重なるようにしていました。情報共有や申し送りができるように。このような場合、病院から配属される場合はだいたい1週間が目安で交代って決まっているんです。医療チームスタッフの心身の健康も守るためにも。

実際のチーム編成について

1チーム何名ほどで活動されていたんですか?

(四十竹さん)これもだいたい災害のときのチーム編成って決まっているんですけど、医師1人に対して看護師2人、薬剤師1人、事務員1人の5人1チームで活動します。被災の状況によっては医師が2人の場合もあります。東日本大震災のときは被災者が多かったので、医師2人、看護師2人、薬剤師1人、事務員1人で動いていました。このチームで女川の避難所に診療所を設け駐在していました。

―――――(つぼみ)四十竹さんは震災発生何日後ぐらいに行かれたのですか?

(四十竹さん)私はGWすこし前、4月の終わりごろ…、震災からだいたい1か月半経ったころです。

―――――(つぼみ)そのころ被災地はどのような状況になっていましたか?

(四十竹さん)女川地域に泊まれるところは一切なかったので、松島に滞在していました。そこから毎日片道約2時間かけて女川まで通っていました。松島はそのときちょうどGWに向けての復興が進んでおり、すでに被害がほとんど分からないぐらい復興が進んでました。交通機関もかなり落ち着いていて、「本当に同じ宮城県か?」というぐらいでした。仙台も震災の爪痕がほとんど分からないぐらいで。
ところが、女川地域にいくと「1か月経っててもまだこんなに?」というほど、爪痕が残っていました。まだ被害も色々そのままで……津波ってこんなにすごかったんだな、って。

災害看護チームに参加するまでの流れ

四十竹さんは当時、なぜ災害看護のチームに入って活動することになったのですか?

(四十竹さん)私は元々、赤十字の看護学校出身なんです。赤十字の看護学校って卒業する時に「災害看護師」の称号が与えられるんです。学生のときから授業で災害看護のカリキュラムがあって。本来、災害派遣されるのは病院の現場の看護師さんでDMATの研修を受けている人が基本的に行くんですけど(第1回「災害看護」って・・・?? 参照)、人が足りていなかったのもあって赤十字の学校出身の私にも声がかかったんです。
「私が行ってなにができる?」って不安はすごくあったんですけど……。でも「行きたい」って気持ちもあったので行きました。できることをしよう、と。

―――――(つぼみ)「怖さ」みたいなものはありませんでしたか?

(四十竹さん)状況が分からないまま行ったんですけど、私が行くターンから回診もすることになって。まだ若い医師の先生1人と私の2人で回診もしました。でも行く先の病院の状況も全然分からなくて……。
2人とも不安でしたが、ペアを組んでいた若い先生には、現地の人達に不安を与えたらいけない、みんな「お医者さんが来てくれる」と思ってくれているんだから、「できません」なんて言ったらだめよ、と伝えました。幸い重篤な患者さんはいませんでしたが、どうしても医療技術的に難しい処置の要望に対しては罨法などで対処しました。それが一番不安な瞬間でした。でもやはり状況が状況なので、中には「いつまでこんなところにいさせるんだ、いつになったらちゃんとしたところに行けるんだ」と訴える被災者の方もいました……。

―――――(つぼみ)約1か月半経っていたとのことですが、四十竹さんから見て、当時の被災者の方たちの全体的な様子はどうでしたか?

(四十竹さん)当時、石巻の赤十字病院が被災の割合が少なかったので、そこが当時の災害医療派遣の拠点となっていました。石巻の周辺地域で医療支援を行っている、全医療スタッフが毎日18時になったら一斉に集まって、それぞれどんな状況かって報告し合うんですよ。そこで私が聞いた限りは、その時期はもうどこも徐々に落ち着き始めているようでした。女川の避難所でも仮設住宅が建ち始めていたんですね。その入居の抽選がもう始まっている時期で、だからそれに関して当落の結果で落ち込んでいたり。あと、避難所からどんどん県外へ出ていった人もいて、避難所で過ごす人も減っていってたんですよ。だから、避難所で残って生活している人が空しさとか淋しさを感じ始めてて。決していい生活ではないですからね。テレビで観たと思うんですけど、段ボールで区切られてて個人のスペースもなくて。
とは言え、物は手に入るようになってきてはいたんです。近くのスーパーももう復旧していてすでに買い物できる状態になっていて、少しずつ整ってはきていて。自衛隊の炊き出しももう終わっていて。

―――――(つぼみ)じゃあ当時四十竹さんが現地で行った具体的なケアというのは?

(四十竹さん)「心のケア」が中心でしたね。「話を聞いてほしい」と言うお年寄りの方が多くいましたので、ほとんどそれをメインとした看護を行いました。

被災者の方と接してみて……

その中でも印象に残っている被災者の方はいましたか?

(四十竹さん)いますね。中学1年生の女の子だったんですけど、最初は「夜眠れないんだ」って言って来たんですよ。すごくなついてくれてて、私が駐在しているあいだ、後半の3日間ぐらいですけど、毎日来てくれていたんです。
その子、当時小学校の卒業式直前で、あの日は近くのお店にお母さんと服を買いに行っていたらしいんです。そのとき、津波に遭ってしまって。でもその時はお店の中にいて無事で、お母さんとおじいちゃんとおばあちゃんの家に移動したらしいんです。おじいちゃんとおばあちゃんが「中学校の制服濡れないように2階に上げておいたよ」なんて話をしたりして。そのあとお母さんが別の親戚の様子を見に行くって言って、1人で出て行ってしまって。そのまま津波に巻き込まれてしまったそうで……その子、その話を淡々と話すんです。泣いたりもせず。「本当は卒業式だったんだよ」って。
その子のことがすごく気にかかってて。現地派遣が終わるときも次のチームに申し送りはしたんですけど……。
でも、結局、これが災害看護の虚しさというか。1週間という期間の中で次につなげるのも難しいし。きっとあの子みたいな人はたくさんいて、「なんとなく気になる」って被災者がいたとしても、こちらも滞在の期限が限られているし、次のチームに申し送りはしてもどこまで伝わるか分からないし。気がかりのままでした。病院所属の看護師として行く辛さはこういうときですね。1週間の中で何ができるかって考えたとき「何もできないんじゃないかな」ってすごく思いましたね。
あの子ももう二十歳になっているんですよね。

―――――(つぼみ)私のイメージだと、看護師さんが被災地へ行ったら、すごく活躍して、たくさんの人を助けて帰ってくると思っていたんですけど、実際「何もできなかった」って思ってしまうんですね。

(四十竹さん)たしかに発生直後に派遣された第一陣の人はトリアージの判断なんかもしたり、自分のできる救急処置をたくさんすることと思います。
でも、ある程度状況が落ち着いてから行う看護で必要なのは、気持ちのケアなんですよね。目に見えない部分のケアが。

今回のインタビューはここまで!

引き続き来月も四十竹さんのお話を聞かせてもらいます。

宮城県牡鹿郡女川町について

2011年3月11日午後2時46分に三陸沖を震源に発生した巨大地震。東日本の各地で大きな揺れを観測し、それと共に押し寄せた津波により、多くの人命が失われ、被害をもたらしました。その中でも特に、宮城県牡鹿郡の津波の被災は大きく、東日本大震災による死亡率(死亡率=〔死者数+不明者〕/〔死者数+不明者数+避難者数〕×100としたとき)が55.9%と最も高いのが女川町でした。
女川町は宮城県の東端、石巻市に隣接しており、太平洋に突き出た牡鹿半島の頚部に位置しています。西部・南部・北部の三方、山々に囲まれ、女川湾の沖合には江島列島や出島など大小の島々が散在しています。漁業と水産加工業を中心とし、三陸漁場が近いことから、年間を通じて暖流、寒流の豊富な魚種が数多く水揚げされ、特にサンマの水揚げ量は全国有数でした。
2010年度の国勢調査で女川町は、人口1万59人、世帯数3,968世帯でした。しかし、震災の津波によって、死亡判明者569名、死亡認定257名、行方不明者1名、確認不能者4名が被害に遭い、2011年には人口8,445人、世帯数3,428世帯と大幅に減少しました。
2018年現時点での、女川町は人口6,563人、世帯数3,141世帯と町外に出て行ってしまった人も多くいますが、更なる復興に向け、漁業の活性、観光地やイベントを盛んに行った町おこし、災害公営住宅の建設などが行われています。

女川町HP、ぜひご覧ください!